まるで遠くの街で誰かが爆発音を聞いたと言っているのをラジオ越しに聞くように、じわりとした痛みが、ある朝、右の脇腹あたりににじみ出ていた。それは胃の問題だと医者は言ったし、恋人は「また変な本ばかり読んでるからよ」とため息をついた。
会社を辞めたのはその翌週だった。理由は単純で、もう電車に乗れなかったからだ。午前8時の中央線は、たとえば、時間の流れを少しだけ誤って配置されたビートルズの未発表曲のように、微妙に気持ち悪かった。
そんなわけで、僕はしばらく無職の時間を過ごすことになった。無職というのは、時間の中に意識を置き忘れるような感覚だ。あまりに暇なので、僕は毎日、近くの公園に咲く桜の下に座ってコーヒーを飲んだ。桜は盛りを過ぎ、風に吹かれては、まるでゆっくりとため息をつくように、花びらを散らしていた。
そのベンチの場所からは、斜め向かいにある古いアパートのベランダに掲げられたくすんだ指圧按摩の看板が見えていた。新しい住宅が建ち並ぶ中で、その建物だけは昭和からずっと変わっていないようだった。
自分も昔、マッサージをしていたことがあった。主に男性向けのマッサージで、顧客のほとんどはゲイの人だった。
そのことを人に話すとたいてい「大変じゃなかった?」とか「意外だね」と言われる。見た目がどうとか、性向がどうとか、人は簡単に箱を作っては中に詰め込もうとする。でも僕はただ、大学時代にバイトで始めたその仕事を、それなりに誠実に続けていただけだ。
春の午後、ベンチでコーヒーを飲んでいると、時折そのアパートの二階の窓が開いて、風に乗って古い歌謡曲が聞こえてくることがあった。小さなラジカセか何かで流しているらしく、音はかすかで、メロディーはどこか歪んでいた。それが妙に心地よかった。まるで、時間の端っこに引っかかった記憶がこすれるような感じだ。
ある日、そのベランダに女の人の影が見えた。年配の男性がやっていると思っていたから意外だった。年齢はうまく読めなかった。髪は短く切り揃えられていて、灰色のTシャツの肩が少し伸びていた。彼女は缶ビールを片手に植木鉢の花に水をやっていて、僕がベンチから見ていることに気づいていたのかどうか、あるいは気づいていないふりをしていたのか、判断することはできなかった。
翌週も、僕は同じベンチに座って、同じ缶コーヒーを飲んでいた。すると、彼女が2階から大きな声で
「ここの桜、好きなの?」と言った。
「まあ、嫌いではないです」と僕は声を張って言った。
彼女は僕の持っていたコーヒーを指さして、「それ、苦くない?」と聞いた。
「ちょうどいい苦さです」と僕は答えた。
彼女は笑わなかったし、僕も笑わなかった。まるで一枚の古いレコードのB面に、まだ知らない曲が隠されていたのを見つけたみたいだった。
その日の午後は、何もかもが曖昧で、正直な輪郭を持たなかった。でも、僕はそれでよかった。曖昧なものの中にしか、僕は居心地の良さを見つけることはできなかったからだ。
次の日もまた、その次の日も、僕は公園のベンチに座って、缶コーヒーを飲みながら桜の残骸のようなものを眺めた。花はほとんど散って、地面にうっすらとピンク色の層を作っていた。まるで誰かが一度開いた記憶を丁寧にたたんで、春の底にしまい込んだみたいに。
彼女は、毎日ではなかったけれど、週に何度かベランダに現れた。時には煙草をくわえていたし、時にはラジオのボリュームを少し上げて、ジュリーか誰かの声を風に流していた。僕がベンチにいるのを確認すると、軽く手を上げるようになった。微妙な手つきだった。挨拶とも、ただの身体の調整運動ともつかない。でも、僕はその曖昧さが嫌いではなかった。
十日ほど経ったある午後、彼女がアパートから降りてきて、僕の横に腰を下ろした。手にはレモンサワーの缶があって、開けたての炭酸がしゅわっと音を立てていた。彼女は僕のコーヒーを見て、僕は彼女のレモンサワーを見た。
「あなた、働いてないの?」と彼女が言った。
「はい。胃と心を壊しまして」
「順番は?」
「胃が先です。心はついでみたいなもんです」
「ふーん」と彼女は言って、それから何も言わずにレモンサワーを飲んだ。缶の表面に陽が反射して、彼女の横顔に不思議な光の屈折が生まれていた。たぶん、ああいうのを〈美しい〉と言うのかもしれないけれど、僕はそういう言葉を使うのがあまり得意ではない。
彼女の名前は笠原というらしかった。話しているうちにそう名乗った。年齢は訊かなかったし、訊かれることもなかった。僕たちは一時間ほど他愛もない話をして、沈黙を挟んで、それからまた話をして、自然に別れた。
彼女と別れて歩き出したとき、ふと、胃のあたりの重さが少しだけ軽くなっているのに気づいた。治ったわけではない。たぶん、ただ少し、重さの種類が変わっただけだ。たとえば、硬貨をひとつポケットに入れるような、そういう変化だった。
夜、アパートに帰ると、部屋の中はいつも通り静かで、冷蔵庫の中には炭酸水と賞味期限の切れたヨーグルトしかなかった。僕はそれをそのままにして、古いレコードを一枚、プレーヤーにかけた。音楽は、いつも何も教えてくれない。でも、それがかえって、僕には心地よかった。