シンガポールの空気は湿気をたっぷりと含んでいて、僕の皮膚にぴたりと張り付いていた。ラッフルズホテルの天井の高い部屋に滞在していると、その湿気が不思議な贅沢に思えてくる。けれど、その贅沢をどう扱えばいいのか僕には分からなかった。
滞在初日の朝、僕は「コウ」という名の施術者にマッサージの予約メールを送った。彼の評判はなかなか良かったし、シンガポール滞在中に一度は試してみる価値があるだろうと思ったのだ。しかし、彼からの返信はあまりにそっけなかった。
今週は予約でいっぱいです ごめんなさい
ただそれだけ。僕はそれを不本意に思いながらも、それ以上追及する気にはなれなかった。誰だって忙しいのだ。
その夜、ホテルのバーでひとりウィスキーを飲んでいると、カウンターの向こうに若い男が座っているのが目に入った。日焼けした腕には幾何学模様の刺青が刻まれていて、その模様はどこかで見たことがある刺青だった。それはマッサージのコウのホームページの彼の腕にも、モザイクがかけられていたがとても似た刺青が入っていた。
僕は少し迷ったが、逡巡した後、彼に話しかけた。
一緒に飲んでいい?
彼は驚いたような顔をしたが、嫌そうではなかった。そしてすぐに表情を和らげた。
彼の名はリムといった。リムには双子の弟がいて、ずいぶん前に亡くなったらしい。
僕らは何でも一緒だったんだ
と彼は刹那げに言った。
バスケットも一緒にやったし、学校では同じクラスに入ることさえあった。でも、死ぬのは別々なんだよな
僕はその言葉に返すべき言葉が見つからなかった。だから、今朝カジノで得た少しのチップを彼に渡し、「部屋でもう少し一緒に飲もう」と誘った。彼は少し考えた後、こちらが怪しくないことを判断すると、黙って頷いた。
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部屋に戻ると、僕らはウィスキーを飲みながらいろんなことを話した。リムの父親は貿易商で、母親は韓国人だということ。双子の兄弟としての複雑な絆や、時に反発し合った日々のこと。そして、弟がなくなった後の喪失感について。
アルコールが回り、会話は次第に途切れがちになった。僕らはたぶんどちらもゲイなんだろう、自然な成り行きでそのままベッドに横になり、いつの間にかNetflixをつけたまま眠り込んでしまった。
翌朝、目を覚ますと、彼の姿はどこにもなかった。枕元に置かれたウィスキーグラスの底に、
また会いましょう
とだけ書かれていた。
僕はそのグラスをじっと見つめながら、リムがいつ部屋を出たのかを思い出そうとした。しかし、どんなに思い出そうとしても、その記憶は夢の中に溶け込んでしまって思い出せないでいた。
ウィスキーの残り香がまだ部屋に漂っている。僕は窓の外に目をやった。シンガポールの街は何事もなかったかのように静かに湿ったアジアの空気を漂わせていた。
彼とはまた会えるのだろうか?
僕は、リムが最後に話してくれた言葉を思い出した。
双子って、どちらかがいなくなると、もう片方もどこか欠けてしまうんだ。多分、僕はずっとそうだろうな
彼のその言葉は、また会いましょうという短いメッセージよりも、ずっと深く僕の胸に刻まれていた。