触れることで交わる心、癒される魂
ゲイマッサージという繊細な場所を通じて、人々の想いが時間を超え、空間を繋ぐ
出会い、別れ、再生
静かな施術台の上で紡がれる物語
触れることは、感じること。
感じることは、生きること。
人生の深層に触れる8つの掌編
シーズン1
クリスマス、僕は一人だった。特別に悲しいわけでもなく、特別に嬉しいわけでもない。ただ、そこにぽっかりと空いた時間のようなものがあって、それをどう埋めるべきか悩んでいた。
街はイルミネーションで賑やかだった。カップルや家族連れが行き交う中、僕はなんの気なしにゲイマッサージを予約した。
施術室は薄暗く、コルトレーンのWhat Child Is This?が静かに流れていた。担当してくれたのはHaruto、というラグビーか砲丸投げをしてそうな体型の20代の男の子だった。
彼の手は驚くほど温かくて、触れるたびに僕の体から少しずつ余計な緊張を溶かしていった。ほどよい熱が、冷えた身体を温めてくれた。
「今日はお仕事だったんですか?」と彼が尋ねた。
「いいえ、ただ一人でぶらぶらしていただけです。」
「そうですか。」
それ以上会話は広がらなかった。でも、それで十分だった。
肩や背中に響くリズムは心地よく、まるでクリスマスの大きな雪原を静かに歩いているような気分にだった。
施術が終わると、僕の体は信じられないくらい軽くなっていた。
「これで良いクリスマスを過ごしてください」と彼が言って、小さな箱を渡してくれた。
良いクリスマス、そんなものが存在するかどうかはわからないけれど、帰宅して箱を開けると、中は空っぽだった。その小さな箱は、今もテーブルの上に置いてある。
冬の日、僕は冷たい風から逃れるようにして、そのゲイマッサージのドアを開けた。Chet Baker の “Winter Wonderland” が流れる小さな部屋は、ほのかにサンダルウッドの香りがした。僕はシャワーを済ませ、施術台に腰を下ろした。
ほどなくして、ドアが再び開く音がした。入ってきたのは、意外なほど静かな足音だった。どこかで見覚えのある顔、それが誰だったのか、すぐには思い出せなかった。
彼もまた、僕のことを覚えているのだろうか。ややぎこちない表情にそう思いながら、僕はうつ伏せになり、彼の手が僕の背中に触れるのを感じた。その手は驚くほど温かく、雪のように積もる疲れを溶かしていった。
疲れているんですね
彼が静かに言った。その声には、まるで昔から僕のことを知っているかのような親密さがあった。軽く頷き、
最近、いろいろあって
とだけ答えた。
どうしてここで働いているんですか?
と、僕は思わず口にした。質問は自然なものだったが、自分の声がどこか不安定で不自然な色を帯びていたことに気づいた。
流れ着いた感じですかね
彼は少し笑って答えた。
何かを探していたわけでも、何かを忘れたかったわけでもなく、ただ、気づいたらここにいたんです。
彼の言葉には、妙に説得力があった。人生というものが、時に自分の意志とは無関係に進むことを、僕もまた知っていたからだ。
施術が終わり、僕はそっと彼に向き直った。
ありがとう
こちらこそ、また必要になったらいつでも来てください
別れ際、彼の目を見つめた時、彼もまた僕を覚えていることに気づいた。ただ、それを言葉にする必要はなかった。部屋を出た後、僕は冬の空気を深く吸い込んだ。その冷たさが、どこか優しく感じられた。
彼は、元彼の浮気相手だった。僕たちはそれが原因で3年前のクリスマスに別れた。元彼には未練がないけれど、写真でだけ知っているその人は、暗闇の中で僕の身体に先ほどまで触れていた。
同じ人に触れた、その指の感触は、僕になんらかの赦しのような気持ちを与えた。
人と人の間に残るものは、言葉ではなく、触れることもできない何かだ。その触れることのできない何かが、暗闇の中からこちら側を触れて、そっと離れて行った。
お店をでると、雪が降っていた。
上海出張中の大晦日の夜、僕はふとした思いつきでゲイマッサージの予約を取った。特に意味はなかった。何か特別な予定があるわけでも、誰かと過ごす気力があったわけでもない。ただ、カレンダーの端が切り取られるその日が、他の364日とは少し違うものに思えたからだ。
店は思った以上にこぢんまりとしていて、控えめな明かりが温かみを演出していた。前払いを済ませると、無駄のない手つきのスタッフが僕を施術室へ案内した。部屋の中では穏やかなピアノジャズが流れていて、「 Bill Evans、Peace Piece 」と僕は思ったが、声に出すことはなかった。
施術を担当する彼は、「タツヤ」と日本語名を名乗った。若干40代に差し掛かったかどうかという顔立ちで、穏やかさと落ち着きを兼ね備えていた。彼の手が背中に触れた瞬間、僕はその手の暖かさに、ただ目を閉じるほかなかった。
Please take a deep breath.
彼の柔らかな声に促され、僕はゆっくりと息を吸い、吐き出した。空気が身体の中を巡り、固くなっていた部分を少しずつほぐしていく。施術が進むうちに、僕の意識は次第に遠のいていった。それは睡眠とも違う、不思議な感覚だった。
そして次に目を開けたとき、ジャズの音色は変わらず部屋に漂っていたが、何かが決定的に違っている気がした。どこがどうとは説明ができないのだけれど…
ドウですか?comfort?
彼が優しく問いかけた。だが、僕は答えられなかった。部屋の壁にかかった時計が0時を示しているのを見たとき、僕の中で何かがパチンと弾ける音を立てた。
Happy New Year.
彼が微笑んだ。その笑顔に何の違和感もないはずなのに、僕の心臓はなぜか大きく跳ねた。
施術を終え、店を出ると、街は新年特有の静けさに包まれていた。人影は少なく、かじかむ手をポケットに入れながら、僕は外灘のホテルへの帰り道を歩き始めた。
途中の交差点で、不意に誰かの声が聞こえた。僕は立ち止まり、振り返った。その声は、昔大好きだった既婚のあの人にそっくりだったからだ。だけど、通りには誰もいなかった。
僕は声を失い、ただその場に立ち尽くしていた。周りを見渡し、路地の間も確認し、頭の中で疑問が駆け巡ったが、答えは見つからなかった。ただ、世界はほんの少しだけいつもと違っていた。
夜空には薄い雲が広がり、街の明かりをぼんやりと反射していた。新しい年を迎えたこの夜、僕はホテルで仮眠をとり、ケニアに向かう。
シンガポールの空気は湿気をたっぷりと含んでいて、僕の皮膚にぴたりと張り付いていた。ラッフルズホテルの天井の高い部屋に滞在していると、その湿気が不思議な贅沢に思えてくる。けれど、その贅沢をどう扱えばいいのか僕には分からなかった。
滞在初日の朝、僕は「コウ」という名の施術者にマッサージの予約メールを送った。彼の評判はなかなか良かったし、シンガポール滞在中に一度は試してみる価値があるだろうと思ったのだ。しかし、彼からの返信はあまりにそっけなかった。
今週は予約でいっぱいです ごめんなさい
ただそれだけ。僕はそれを不本意に思いながらも、それ以上追及する気にはなれなかった。誰だって忙しいのだ。
その夜、ホテルのバーでひとりウィスキーを飲んでいると、カウンターの向こうに若い男が座っているのが目に入った。日焼けした腕には幾何学模様の刺青が刻まれていて、その模様はどこかで見たことがある刺青だった。それはマッサージのコウのホームページの彼の腕にも、モザイクがかけられていたがとても似た刺青が入っていた。
僕は少し迷ったが、逡巡した後、彼に話しかけた。
一緒に飲んでいい?
彼は驚いたような顔をしたが、嫌そうではなかった。そしてすぐに表情を和らげた。
彼の名はリムといった。リムには双子の弟がいて、ずいぶん前に亡くなったらしい。
僕らは何でも一緒だったんだ
と彼は刹那げに言った。
バスケットも一緒にやったし、学校では同じクラスに入ることさえあった。でも、死ぬのは別々なんだよな
僕はその言葉に返すべき言葉が見つからなかった。だから、今朝カジノで得た少しのチップを彼に渡し、「部屋でもう少し一緒に飲もう」と誘った。彼は少し考えた後、こちらが怪しくないことを判断すると、黙って頷いた。
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部屋に戻ると、僕らはウィスキーを飲みながらいろんなことを話した。リムの父親は貿易商で、母親は韓国人だということ。双子の兄弟としての複雑な絆や、時に反発し合った日々のこと。そして、弟がなくなった後の喪失感について。
アルコールが回り、会話は次第に途切れがちになった。僕らはたぶんどちらもゲイなんだろう、自然な成り行きでそのままベッドに横になり、いつの間にかNetflixをつけたまま眠り込んでしまった。
翌朝、目を覚ますと、彼の姿はどこにもなかった。枕元に置かれたウィスキーグラスの底に、
また会いましょう
とだけ書かれていた。
僕はそのグラスをじっと見つめながら、リムがいつ部屋を出たのかを思い出そうとした。しかし、どんなに思い出そうとしても、その記憶は夢の中に溶け込んでしまって思い出せないでいた。
ウィスキーの残り香がまだ部屋に漂っている。僕は窓の外に目をやった。シンガポールの街は何事もなかったかのように静かに湿ったアジアの空気を漂わせていた。
彼とはまた会えるのだろうか?
僕は、リムが最後に話してくれた言葉を思い出した。
双子って、どちらかがいなくなると、もう片方もどこか欠けてしまうんだ。多分、僕はずっとそうだろうな
彼のその言葉は、また会いましょうという短いメッセージよりも、ずっと深く僕の胸に刻まれていた。
新宿の夜はまるで海底のように息苦しい。通りを渡るたびに、誰かの気配が肌にまとわりつく。僕は借金の返済に追われていた。
自分が蒔いた種なのはわかっている。借金なんて軽い気持ちで背負うもんじゃない。たった12万円、でも、それだけで僕の夜は締め切られていた。
深夜0時がリミット。それを超えたら、僕が何を失うか、誰も教えてくれなかった。
逃げるように入ったのが、新宿二丁目のゲイマッサージ店だった。暗い階段を降りると、奥から店長らしきピアスの男が出てきた。体型はがっしりしていたけど、目つきはどこか女で、そして疲れていた。
ここで働かせてください。今すぐに
そう言った僕を、彼は長い間じっと見つめた。まるで目で犯すように。やがて、タバコを灰皿に押しつけながら、いいわよ、としぶしぶうなずいた。
まあ、すぐ辞めるだろうけどね
制服代わりのTシャツを渡され、僕はろくに説明も受けないまま、最初の客を迎えることになった。その客が現れたのは、きっちり1時間後だった。
顔全体を包帯で覆った男だった。どこか壊れたマネキンみたいに無表情で、それが逆に奇妙な存在感を放っていた。いや、その姿は奇妙というより不安そのものだった。包帯の下には何もない無が存在しているようだった。
明かりは全て消してくれ
薄暗い部屋で、彼の厚くて立体感のある岩のような背中に手を置いた。想像していたよりも体は温かかったが、その温度はどこか現実感を欠いていた。まるで触れているのが人間じゃないみたいだった。僕は手を動かしながら、なんとか自分を落ち着かせようとした。自分がどれだけの重さで触れているのかさえわからなくなった。
彼が突然口を開いたのは、僕が肩のあたりに手を伸ばしたときだった。
僕の顔は、ここにはないんだ
暗闇の中で、彼の言葉はどこか遠くの街灯の光のように滲んで聞こえた。
僕の顔は、ここにはない
彼はもう一度そう言った。
君は触れることができないんだ
僕は何も言えなかった。手を止めるべきなのか、続けるべきなのかもわからなかった。ただ、その言葉は、部屋の湿った空気の中に染み込んで重力を生じさせていた。
君は今、何かを守ろうとしているね。でも、そんなものはどこにだって運ばれてしまうんだよ。君が知らない間に
僕は何も言えなかった。ただ沈黙だけが、暗闇に広がった。
マッサージが終わると、彼は立ち上がり、包帯越しに僕をじっと見つめるような気配を残した。言葉もなく、ただ手で差し出してきた封筒にはきっちり12万円が入っていた。
これは代償だよ。君の大切な何かを向こう側に預けた代わりの
彼が去った後、部屋の中にはただ湿ったような静寂が残った。僕はただ、12万円の入った封筒を握りしめていた。
店長に御礼を言って店の外にでると、時計の針は0時を過ぎていた。僕は急いで歌舞伎町に戻り、無事借金を返すことができた。
それなのに、新宿の夜を歩くたび、あの包帯の男の声がどこか遠くから僕を呼んでいる気がする。そしてその声は、僕自身の声とよく似ていた。
僕は献血センターのリクライニングソファに腰を下ろして、腕に刺さった針から赤い血液がチューブを通って流れ出していくのをぼんやりと眺めていた。部屋にはジョン・コルトレーンの「Naima」が静かに流れている。サックスの音はまるで目に見えない煙のように、献血ルームの空気の中を漂いながら、僕の過去の記憶をゆっくりと巻き上げていく。
僕はゲイだ。そして、ここ数ヶ月、誰ともセックスはしていない。そういった種類の行為にはもう少し慎重であるべきだと思うようになったからだ。いや、もっと正確に言うなら、そういう気分になれなかったという方が近いかもしれない。それでも、何かしら人の役に立ちたいと思い、コートを羽織ってこの献血センターにやって来た。
数年前、僕は小さな部屋でマッサージの仕事をしていた。部屋にはベッドとタオル、それに好みの音楽をかけるためのBluetoothスピーカーがあった。僕は毎日その部屋のドアを開け、一日に一人か二人の客を迎え入れる。この仕事はそれなりに収入がよかった。いい月には60万円くらい稼げたし、調子が悪い時でも生活には困らなかった。
昼間は好きな音楽を聴いたり、食べたいものを自由に食べたりできた。その時間は僕にとって、何よりも特別なものだった。音楽の中に潜り込み、どこにも行かないでどこにでも行けるような気分になることができた。
そんな生活が何年か続いたあと、僕には恋人ができた。僕たちは自然と一緒に過ごす時間を増やしていき、それに伴って客の予約を取る回数も減っていった。気がつけば、マッサージの仕事をやめてから5〜6年が経ち、僕の貯金は2,000万円くらいになっていた。それは僕にとって十分ともいえる金額だったし、そうでないともいえた。でも、それで彼と旅行に行ったり、少しのんびり暮らすには十分だった。
そんな風に思い出に浸りながら、僕はチューブの中を流れていく自分の血を見つめていた。そのとき、小さな靴音が部屋の中に響いた。
振り向くと、青いセーターを着た小さな男の子が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。彼は突然立ち止まり、僕の目をじっと見つめてこう言った。
おじさんは悪魔なんだよ
男の子は、淡々とした口調でそう言った。
だから、その血は悪魔の血なんだ
言い終えると、彼はそのままくるりと向きを変え、また母親のほうに走り去っていった。
僕は何も言えなかった。
腕に刺さった針の感触が急に生々しくなり、チューブの中を流れる自分の血が異質なものに思えた。それは、僕が長い間目を背けてきた過去の断片が、この血の中に全て含まれているせいかもしれなかった。
コルトレーンのサックスはまだ流れている。僕は目を閉じ、深く息を吸い込んで、終わりに近づくNaima が部屋を満たしていくのを感じた。その静けさの中で、僕は自分の中に流れるものがなんなのかよくわからなくなっていた。
僕の世界はいつも静かだ。生まれつき耳が聞こえないので、音という概念が僕にはどうにも実感を伴わない。けれど、静寂には静寂なりの深みがある。僕はその中で生きている。
先週からゲイマッサージのアルバイトをはじめた。以前からマッサージ店で働いていたけれど、それだけでは収入が足りなかったからだ。成都の街ではフードデリバリーを副業にする人が多いけれど、僕には向かない。あの性急な世界は、僕のリズムとは合わないのだ。
その日も店で待機していた。午前中から店にいるが、予約は一件も入らない。他の子たちは忙しそうにしているのに、僕だけ手持ち無沙汰だ。耳が聞こえないことや、僕自身の容姿が原因かもしれない。お店のオーナーは配慮してくれるけれど、会話を楽しみたいお客も多いらしく、僕はその点で不利だ。施術中に話が弾まないせいか、僕のことを覚えてもらえることは少ない。
それでも、時々入る予約はフードデリバリーの収入よりはいいし、普通のマッサージ店よりずっと条件が良い。それが唯一の救いだった。
僕は静寂の中に生きている。音楽は歌詞と振動で楽しむ。歌詞にどんなリズムが乗っているのか、どんな色彩がその中に隠されているのかを想像する。それはひとつの遊びのようなものだ。
昼下がり、ようやく予約が入った。オーナーが指差したのは日本から来たという客だった。短く刈り込んだスキンフェードの髪型に、アスリートのような引き締まった体つき。見た瞬間、彼の身体が纏う空気のやわらかさに気づいた。
僕はゆっくりと彼に近づき、案内した。彼は静かに微笑みを返してくれた。その微笑みには、まるで古い井戸の底にたまった雨水のような深さがあった。
施術を始めると、彼の身体から音楽が聴こえてきた。いや、正確には聴こえたわけではない。けれど、その振動やリズムは僕の無音の世界に直接染み込むようだった。それは、過去と未来をつなぐ見えない糸のような音楽だった。
僕は彼の中に入り、彼も僕の中に入ってきた。お互いの境界が溶け合い、静かに座標軸が交差する感覚。その音楽は僕の中の何かをとらえ、引き上げた。
施術が終わると、彼はこう言った。
君があちら側に置いてきたものを返すよ
その声がどんな響きだったのか、今となってはよく覚えていない。ただ、それは確かに声だった。
彼が店を出ると、僕の耳は聞こえるようになっていた。世界は突然、音で満ちた。風のざわめき、街の喧騒、そして僕自身の鼓動。それらは一斉に押し寄せ、僕の静寂を飲み込んだ。
その夜、僕はベッドに横たわりながら考えた。あれは本当に現実だったのだろうか。耳が聞こえるというこの新しい感覚は、僕の 確かなもの として定着するのだろうか。
彼が何者なのか、彼の音楽が僕に何を語りかけていたのか、それはわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。僕は、もう元の 静寂 には戻れないということだ。
どこへ向かっているのか、正直わからない。ただ、進まなければならないという感覚だけが僕を突き動かしている。闇雲に歩き続けること。それだけが僕に残された唯一の選択肢だ。
ゲイマッサージの仕事をはじめてから、お客さんを満足させるためになんでもやってきた。
「こんなことはじめたのが間違いだったのかもしれない」
心の中でそんな声が響く。けれど、それを否定する別の声もある。いや、間違いだったとしても、それを確かめるためには進むしかない。
昔、歳上の彼氏がこう言っていたことを思い出す。
- 迷ったら進め。迷っている間にも、時間は流れていくんだから
あの時は説教だと思っていた。でも今、その言葉が胸に重くのしかかっている。
どうやって引き返すのか忘れてしまったし、引き返すなんて土台無理なことなのかも知れない。なぜなら時間は一方通行なのだから。
一方通行の時間の中で、二丁目のショットバーに行き着いて、僕はあてどもなくスタンディングで一杯飲んでいる。
時々思うんだ。
僕はカウンターにいる友人の陸にぼそりと言った。
時間って、一方通行だよね?
陸は一瞬手を止めたが、すぐにまた氷を掬い上げる動作に戻った。
- そう思わないと、僕らは安心して生きられないんじゃない?もし戻れたらどうしたいの?
彼は手を動かしながら僕を見た。
結局のところ、戻ったところで一方通行に変わりはないしね
と、僕はこたえた。
- だから後悔が必ず生まれる
陸がそう続けた。
もし時間が行ったり来たりしているのだとしても、知覚できるのは今の一瞬だけだ。そして、その一瞬は何よりも尊い。
僕はグラスの底を覗き込んだ。照明で青紫色に反射した液体が揺れ、そこに映る自分の顔が歪んで見えた。
そしてふと気づいた。僕はもう、時間の外側にいる。
時間は波のように広がり、揺らぎ、形を変える。それを観測した瞬間、僕はその時間を包括する外側になった。そして僕は今、時間を超えた無限の海の中に漂っている。どの時点にも戻れるわけではない。ただ、すべてが同時に存在しているという感覚だけが、僕を包んでいる。
- 過去も未来も、どうであれ今に溶け込んでいる。今、それらをどう味わうかが大事だよ
陸は時間の内側からそう言った。
- 氷は溶けるし、店は閉店する、それがこたえさ さあ、暖かい部屋に帰るんだ
僕は片付けをする陸に深夜3時に仲通りに追い出された。なぜか急に実家に電話をしたくなった。父親がでた。なぜだかわからないけれど、涙が溢れてきて、就職したよ、と小さな嘘をついた。
じゃあ、背広を買わなきゃな、と親父が言った。
僕は確かにこの瞬間に存在している。
僕はまだ、闇雲に走らなければならない。この旅に意味があるかどうかわからなくても。
[あとがき]
世間でYouTubeドラマとか流行っているので、ドラマ用に何かオムニバスストーリーを書いてみようと思ったのがこの掌編のきっかけでした。
頑張って撮ろうかな、とも思ったけれど、マッサージしているみんなは顔だしNGだし、実際には撮らないだろうな、という感じで、途中から舞台設定とかも海外にしてみたり、割と自由に楽しんで書きました。
最初のクリスマスの1本は、指示をだして80% AIに書いてもらいました。青山は基本的なテーマを決めたり、文章を整えたり手直しをしただけです。
でも、この時点でAIの不得手なところがわかったので、役割を逆転させ、2本目のWinter Wonderland からは80%〜90%青山が基本ストーリーを書いて、10〜20%ほどをAIに手直しをさせることにしました。そして手直しさせたものをまた青山が校正しました。
また、作品毎に手伝わせ方を少し実験的に変えてみたりしました。特に闇雲に、では時間に関する知識やフレーズをいくつかだしてもらってそちらを参考にしながらその知識やフレーズをパーツのように組み立てたりしつつ、基本的にはほぼ100%、青山が書いた感じです。
なんだか、AIってすごいね、と思う部分と、まだこういう作業はちょっと苦手なのかな?と思うところ(たまに良いフレーズを書いてくれるけれど、ストーリーを紡ぐのは不得手なのかな?)があって楽しかったです。
中編のほうの
架空ゲイマッサージ日記は100%青山が書いているので、AIをつかわない作品と、使った作品の違いみたいなものも読んでもらえると幸いです。
ちなみに、書いてて思ったのですが、どの掌編の登場人物も自分の分身のような気がします。そして、包帯と静寂、そして悪魔の血と闇雲に、は対の作品です。後になるにつれて、ちょっと重い話になりました。
とりあえず8編書いたのですが、まだ続いて書くと思うので、5分程度の休息がてら読んでいただけると嬉しいです。