触れることで交わる心、癒される魂
ゲイマッサージという繊細な場所を通じて、人々の想いが時間を超え、空間を繋ぐ
出会い、別れ、再生
静かな施術台の上で紡がれる物語
触れることは、感じること。
感じることは、生きること。
人生の深層に触れるオムニバス掌編集シーズン2
砂漠
私は中東行きの飛行機に乗っていた。飛行機はおそらくパミール高原のあたりを飛んでいた。ヒンドゥークシュ山脈を見ることはできないが、目を閉じて瞑想をするといつでも連なる山々の美しい風景を思い出すことができる。
ヒンドゥークシュ山脈は多くのインド人にとって、厳しい気候と地形から遭難死をだしてきた魔の山だ。そのため、ヒンドゥークシュという言葉は、「インド人殺し」、を意味する。
私の席の隣にはヒジャーブをした小さな女の子が座っていた。母親はさらに幼い子供を横に座らせて、時折り抱いたり、なだめたりしている。私の隣は空席だったのか、それとも女の子用にとっていたのかは定かでない。
女の子は、こちらを振り向いて微笑んでみたり、チョコレートのようなものを口に含んだり、子供相応の落ち着きと忙しなさを存分に発揮している。母親はアラビア語のイントネーションで女の子からチョコレートを一粒受け取り、シュクラン、と言った。
シュクランという言葉が飛び交った時、私はハッとして、とても遠い昔のように感じる一連の記憶を思い出した。
私がゲイマッサージをしていた頃、あるアラブ系のお金持ちの顧客がいた。彼はバンコクに滞在する際にマンダリンオリエンタルホテルに宿泊し、クアラルンプールから私を呼んだ。航空機のチケットも、ホテルも全て彼が手配してくれた。私は1リンギットも払う必要はなかった。
シュクラン、という言葉は、彼がマッサージのおわりにいつもかけてくれる恩寵のような言葉だった。
- 君は砂漠に行ったことがあるかい?
彼は施術をしている途中にそう言った。私はその頃は中東にも砂漠にも行ったことがなかった。
- ありません
とだけ短くこたえた。彼は得てして短い返事を好んだ。あらゆるお金持ちがそうであるように、本質からそれた無駄な言葉を彼は必要としていなかった。
- 砂漠には何もないと思っているだろう?違うかい?
私は砂漠のイメージを明確には持っていなかった。ただ、ラクダと月、オアシスと渇き
- 砂漠は欠如が生み出す無限の存在でね、水がないことがオアシスを際立たせるように、砂漠は無の中にすべてを抱えている。
施術中の私には少し咀嚼が難しい話だった。そして彼はこう続けた。
- その広さはこの世界で体感できるあらゆる存在よりも人を小さくし、静寂はここではないどこかの喧騒を照らし出す。何もないと思える場所でこそ、何が ある のかを考えざるを得なくなる。君は今、飛行機に乗っている。君のシートの隣にはヒジャーブを被った女の子が座っていて、彼女は君に微笑みながら、おそらく、そうだ、チョコレートを食べている
そういうことさ
私は彼が何を言っているのかよくわからなかった。何かバンコクの路上で安物の薬物をきめたのか、少し酔って私をからかっているのか判断しかねた。だが、彼はとても成熟した人格者で、私は数年の付き合いの中でかなり信頼をしていた。だからちょっとからかっているのだろうと思った。
- 私はあなたの飛行機に乗っています。だから、目的地もあなたの思うままになりますよ
とだけこたえた。そのこたえが的を得ていたのかどうかわからない。
- 君は君のいきたいところに行くべきだね 砂漠は寛容だ
と言って彼は寝てしまった
私がそのような回想から目を覚ますと、CAのアナウンスがあった
- 皆さま、当機はまもなく目的地に向けて降下を開始いたします。現在の現地時刻は0:30、天候は曇りです。シートベルトを締め、座席の背もたれとテーブルを元の位置に戻していただくようお願いいたします。
- また、すべての携帯電子機器は航空機モードに設定してください。降下中、客室乗務員は必要な安全確認を行いますので、どうぞご協力をお願いいたします。着陸まであと30分ほどお待ちください。」
“Ladies and gentlemen, we are now beginning our descent toward our destination. The current local time is 0:30, and the weather is cloudy. Please ensure your seatbelt is securely fastened, your
seatback and tray table are in their upright and locked position, and all portable electronic devices are set to airplane mode. Our cabin crew will be conducting final safety checks during the
descent, and we kindly ask for your cooperation. We expect to land in approximately 30minutes. Thank you.”
CAがそう言い終わると、機体は少しずつ高度を下げ、やがて窓の外には渇いた砂色の大地が見えてきた。隣の女の子が私のほうを見上げてこう言った。
- おじさんの飛行機はどこに行くの?
- 君と同じところだよ
女の子は恥ずかしそうにヒジャーブに顔を包み、澄み切った目でこう言った。
- じゃあ砂漠に行くの?
私は少し笑って彼女の目にこたえた。
空港に到着した後、私は空港近くのホテルに泊まった。物理的な移動だけではなく、時間まで記憶の中で移動したせいで少し疲れていた。1人で海外に来るのも、ホテルに宿泊するのも久しぶりだった。
熱いシャワーを浴び、わずかな移動でついた砂埃を洗い流した。
3時間50分後、私はほとんど眠らないままホテルをチェックアウトした。Careemでタクシーを呼び、砂漠に行ってほしいと運転手にお願いした。彼は無言で頷いた。かわりにタイヤがアスファルトに触れる音をたてて発進した。
街を抜けるまでには少し時間がかかった。道路は広く、車は多かった。オフィスビルやモール、建設途中の巨大な建物が次々と視界を流れていく。けれど、そのすべてがある一定の場所を過ぎると急激に途絶え、代わりに現れたのは、乾いた砂の色をした風景だった。それはあまりに広大で、あまりに無言だった。
車が砂漠エリアに入ると、舗装道路はなくなり、砂の上を滑るように進んだ。運転手は慎重にハンドルを操作しながら、時折バックミラー越しに私の様子を伺っていた。私は窓の外に目をやり、果てしなく続く砂の地平線を見つめていた。
ここまでしか行けない
運転手はそう言うと、軽い沈黙のあとドアをあけた。私はチップを渡し、シュクラン、と伝え車から降りた。砂の上を歩くと、靴の中に細かい粒が入り込んできた。それでもその感触を嫌だとは思わなかった。むしろ、それは私を砂漠と結びつける正しい接点のように思えた。
空は白く濁っていたが、その奥に太陽の光があった。タクシーは砂埃をあげながら私から遠ざかっていった。
風が砂の表面を吹き抜ける音だけが響いている。それはこの場所が何百年も変わらない静寂の中にあることを示しているようだった。
私は鞄から大切に持ち運んだ瓶を取り出し、足元の砂に膝をつき、そして、そっと蓋を開けた。
30年ほど付き合ったパートナーの遺灰は、まるで時の結晶のようにそこにあった。私はそれを手のひらに丁寧に誘いだし、流れゆく風に乗せた。灰は一瞬宙に浮かび、次の瞬間には砂と混ざり合った。その情景は思いのほかあっけなく、けれど、永遠のようにも感じられた。
僕は砂の上に手をつき、そっと目を閉じた。
しばらくして立ち上がり、遠くの地平線を見つめた。砂の上に座り、過ぎ去った日々を砂が運ぶ音を聴いた。ふと風が止まった。見渡す限りそこには何もなかった。けれど、その何もない中に、確かに 「ある」 ものを感じていた。
Podトラベル
AIが僕のためにマッサージの予約を取ってくれたのは、金曜日の昼過ぎのことだった。曇り空の下、僕は自動運転車に乗り込み、指定された場所へ向かうことにした。道中、車内のスピーカーから流れるAIの声は、いつものようにどこか冷静で、感情の起伏をほとんど感じさせなかった。
「リラックスしたい時、マッサージは最適な選択です。」
AIはそう断言した。まるでそれが揺るぎない真実であるかのように。僕はそれに特に反論するつもりもなかった。反論しても意味がないのはわかっているし、何よりその時の僕には、マッサージという選択肢が悪くないように思えたからだ。
やがて車は目的地に到着した。だが、そこにマッサージ店らしいものはどこにもなかった。目の前にあったのは、ガラス張りの、どこか洗練された空間。白い壁と木目調の床、そして整然と並べられたガジェットの数々。
ここ、マッサージ店?
僕は車を降り、立ち止まって店を見上げた。店内では、AIスタッフたちが白いポロシャツを着て、無機質な笑顔を浮かべながら立っている。どこにもマッサージチェアやオイルの香りはない。代わりに、最新型のヘッドセットや薄型のモニターが、控えめなライティングの下で輝いていた。
不思議な違和感を覚えながら、僕は入口の自動ドアをくぐった。冷たい空気が肌に触れる。店内には小さな電子音が規則的に響き、空間全体に目に見えない秩序を与えているようだった。
「いらっしゃいませ。」
スタッフの一人が近づいてきた。彼女の顔はどこからどうみてもAIだった。
マッサージの予約をしていたんですが、ここで合ってますか?
僕がそう尋ねると、彼女は一瞬だけ眉を動かし、それから淡々と答えた。
「はい、こちらで体験いただけます。ただし、通常のマッサージではなく、当店独自のリラクゼーションデバイスをお試しいただく形になります。」
僕はしばらく彼女の顔を見つめ、それから背後に並んだデバイスの数々に目をやった。リラクゼーションデバイス?それは一体どういうものなんだろう。僕が期待していたものとは明らかに違っていたが、かといって完全に間違っているとも言い切れない。もしかすると、マッサージの定義そのものが変わるものなのかもしれない。
「少々お待ちください。」
彼女はそう言い、奥へと消えていった。その後ろ姿を眺めながら、僕は店内に流れる静かな音楽に耳を傾けた。そして、自分がここにいることの意味について、ほんの少しだけ考えた。
店内を少し歩き回ってみたが、どこにも誰の気配もしなかった。静かすぎる空間は、どこか現実感を欠いていた。僕はAIスタッフに案内され、奥へと進んだ。すると、ガラス張りの部屋の中に、大きな装置がひとつ置かれているのが目に入った。それはどことなく日焼けマシーンのような形をしていた。流線型のデザインが未来的で、冷たく、少し不気味だった。
「お客様、こちらへどうぞ。」
AIスタッフは人間のような姿をしているが、彼女の動きにはどこか無機質な滑らかさがあった。まるで、この空間に溶け込むために設計されたかのようだった。
「こちらのPodにお入りください。」
彼女は装置のほうを指さした。その声には感情の抑揚がまったくなく、ただ命令として響いた。
僕は一瞬ためらった。だが、その場の空気と彼女の視線に押されるように、装置の前へと歩み寄った。Podの表面には無数の小さなライトが点滅していて、それが何かの準備を進めていることを示しているようだった。
「お入りになる前に、いくつかの同意が必要です。」
彼女はそう言うと、空中に透明なパネルのようなものを投影した。そこには細かい文字でびっしりと何かが書かれていた。内容を読む気にはなれなかったが、彼女が言葉を続けた。
「こちらは、体験中における免責事項に関する同意書です。リラクゼーションの効果、体験中の感覚変化、個人データの一時的な使用について記載があります。」
個人データの使用?
少し気にはなったが、ここまできて引き返す気にもなれなかったし、マッサージで同意書を書くことは慣れていたので、僕はうなずき、目の前の空中パネルに指でサインをした。
何よりもちょっとおもしろそうだったし、安全性も担保されているという回答がQROS(量子ホロスコープスマホ)のAI チャットから回答もあったので、僕は安心することができた。
サインが終わると、パネルは音もなく消えた。
「準備が整いました。それでは、どうぞ。」
彼女がPodの扉を開けると、内部から冷たい空気が流れ出てきた。中には淡い青い光が満ちていて、どこか別の世界への入口のように感じられた。
僕は深呼吸をしてから、ゆっくりとPodの中に入った。扉が静かに閉じられる音がして、外の世界とのつながりが完全に断たれた。
中は驚くほど静かで、薄暗い青い照明がぼんやりと天井を照らしている。シートのようなものがあり、横になれるように設計されていた。 パネルに触れると微かな振動が指先に伝わり、薄い液晶が光り始めた。青白い光の中に、奇妙に流麗な文字が浮かび上がる。直感的にわかる操作が印象的だった。
「ゆっくりと呼吸をし、目を閉じてください。」
案内に従い、僕は呼吸をした。AIが手配したマッサージはまとはずれだったかも知れない。こんなpodで満足のゆくマッサージが受けられるだろうか?こんなことなら、ちゃんと確認して格安のAIアンドロイドマッサージ(AI Android Massage)でも予約すればよかった。
それでも、すでにお金を払っている以上、ここで引き返すのはもったいない気がしてならなかった。いや、単純に好奇心が勝っていたのかもしれない。
- 心拍数、呼吸、筋肉の緊張状態をスキャンします
「スキャン?」
僕は思わず声に出したが、podの中に響く自分の声がやけに小さく感じられた。次の瞬間、壁全体が波紋のように柔らかく光り始め、体中が軽く温められていくような感覚に包まれた。
僕は目を閉じた。そして何かが、深いところで自分を探ろうとしている気配を感じた。これがマッサージなのだろうか?リラックスというよりも、僕の内側が覗かれているような気分だった。
突然、音声が流れた。
- Pod体験割引キャンペーンに参加いただきありがとうございます
- あなたの経験無意識データは正常にアップロードされました
経験無意識データ?いったい何?だが、その疑問を抱える間もなく、Podは過度に冷却され、白いガスのようなもので満たされると急激な眠気が襲ってきた。意識が薄れていく中で最後に見たのは、podの壁に浮かぶ一つの文字だった。
- 起動中
意識が戻ったとき、最初に感じたのは冷たい床の感触だった。僕はどこにいるのかもわからず、しばらく目を閉じたままその冷たさを確かめていた。次に耳に入ったのは、遠くで風が吹き抜ける音だった。それは過去のどこかで聞いたものと似ているが、微妙に違う気がした。
よく見わたすと、部屋は柔らかい薄明かりに包まれていた。窓の外には灰色の雲が静かに広がり、どこか遠くで雨の匂いが漂っている。頭は重く、体中が鉛のようにだるい。昨夜のことを思い出そうとしたが、記憶はぼんやりと霧の中に沈んでいる。
そんな時、気配を感じて目を凝らした。視界の端に誰かが立っている。見覚えのある横顔だ。
- まだ寝てるのかと思った。
その声を聞いた瞬間、僕の胸に刺さるような刺激が走った。そこにいたのは、何年も前に僕の人生から去っていったはずのアサヒだった。
「どうしてここに?」
僕はようやく声を絞り出したが、その声は自分でも驚くほど弱々しかった。
彼は微かに笑った。その笑顔はかつての記憶と同じ、どこか悲しげで、それでも暖かいものだった。
- そんな顔するなよ
と、彼はベッドの脇に膝をついた。
- 疲れてるだろう。少し休ませてあげるよ
僕が何かを言う間もなく、彼の手がそっと僕の肩に触れた。その感触は現実味がないほど穏やかで、手が触れた箇所から静かに温かさが広がっていく。
- これ、覚えてる?
彼の指が僕の背中をなぞると、一瞬だけ過去が鮮明によみがえった。二人で過ごしたあの夏、蒸し暑い山の午後、彼が同じようにテントで僕の背中を触れた記憶。
彼は僕を見ていた。その瞳は深く、僕の心の奥底をのぞき込むようだった。
- たまにはこうやって昔を思い出してもいいだろう?
過去の記憶が断片的によみがえった。僕らが出会った日、別れを告げた夜、そして彼が去った後の部屋の沈黙
- ずっと忘れたことなんてなかった
彼が低い声で言った。
僕は彼の言葉をどう受け止めていいのかわからなかった。ただ、その声に包まれ、指先の温かさに癒されることしかできなかった。
彼はそれからの僕の質問には何にも答えず、ただ静かに微笑んでいるだけだった。そして、僕の体を撫でる手の動きが次第にゆっくりとなり、最後には波打ち際の潮が砂の中に吸収されるように静かに停止した。
僕が目を開けると、Podの中は静まり返っていた。アサヒの姿は消え、背中に残る温もりだけが、彼が本当にここにいたことを告げているようだった。
僕はしばらくベッドの中で横たわったまま、彼の手の感触を思い出していた。
Podが開き、僕はゆっくりと体を起こし、QROSの通知をみた。QROSには体験が終了したことを知らせる通知が表示されていた。
- Thank you for using Hippocampus Massage.
それを見た瞬間、胸の中にぽっかりと穴が開いて広がった。僕の記憶から最も求めていた瞬間が再現されて、また消えたのだ。
僕が心の奥底でどれほど彼を求めていたのか、どれほど彼を忘れられなかったのか、そんな自分自身の気持ちを突きつけられたようだった。
QROSの画面をもう一度見た。そこには体験内容の簡単な説明が記されている。
「記憶内の対象者が選定されました: ユーザーの深層意識に基づき、最も望ましい癒しの瞬間を再現」
深く息を吐くと、簡素だがあたたかい照明の部屋中にその音だけが響いた。胸の奥からじわりと寂しさが湧き上がってきた。AIガイドが帰りの道順をホログラムで説明してくれた。
僕は気分を取り直し、彼の手の温もりを心に呼び起こして再び自動運転車を呼んだ。
そして、僕はこのPodの魅惑にハマってしまった。やや高額ではあったが、払えない額でもなかった。月に1度〜2度、この場所に行き、Podを利用した。アサヒに会い、失われた日々を過ごした。これは普通のマッサージではなかったが、それらで満足できない何かを確実に埋める方法だった。
しかし、3ヶ月ほどたったある日、変化が起こった。アサヒが僕にこう言ったのだ
- あまりここに来てはいけない。君はもっと君の人生を歩くんだ
- 俺は君のもとを去る
彼は突然僕に別れを告げた。そして、何度トライしても、Podに彼は二度とあらわれることがなかった。
PodとQROSには、修正不可能なエラーが発生したことが通知されていた。
現実から離れつつあった僕は、再び現実に引き戻され、そして独りにされてしまった。
何度Podに入っても、僕はひとりぼっちだった。それは巧妙に現実をトレースしたかのようだった。
あの装置は僕の無意識の願望を形にする道具だとAIは説明した。それならアサヒが僕のもとを去ったのも、彼自身の意志ではなく、僕の中に潜んでいた何か――僕自身が気づいていない願望が、彼を追い出したということになるだろうか?
僕の目が世界を観測し、僕の意識がそれに意味を与える。その瞬間に、世界はひとつの形をとる。結局のところ、現実も装置の中も、僕の認識が作り出している。観測し、解釈し、そうして世界が完成する。
もし現実世界でアサヒが僕の元から去ったのが、僕自身の無意識によるものだったとしたら――それはつまり、僕が心の奥底で孤独を望んでいたことになるのだろうか。
考えても答えは出ない。僕が願っていたのが何だったのか、それすら僕には断定もできず曖昧だった。深い森の中で落とし穴に落ちたような、深く沈んだ影のような孤独だけがある。そしてその孤独は、どこかで僕自身の親密なものだと感じられる。
アサヒが消えたのは、僕がそう望んだからなのか。それとも、世界が僕の手の届かないところで勝手に形を変えただけなのか。そのどちらにしても、僕はまた独りになった。それは変えようのない現実だった。
たぶん、それでよかったのかもしれない。
僕はしばらくその場に座っていた。Podは静かで、どこか冷たい光を放ちながら僕を見下ろしていた。いや、実際にはPodが「見ている」わけじゃない。観測しているのはいつだって僕のほうで、Podの役割はただそこに在ること。それ以上でもそれ以下でもなかった。
孤独という感覚は最初はただの違和感として始まり、それが次第に存在全体を覆い尽くしていく。その孤独が自分自身の選択によるものだと気づいたとき、僕は奇妙な安心感と罪悪感を同時に感じていた。
僕が孤独を望んだのなら、今ここにあるこの状態は僕の選択の結果だ。そしてその選択を変えることができるのもまた僕自身だ。Podも、アサヒも、現実も、すべてが僕の認識に従って形を変える。
僕は深呼吸をした。意味のない空気が肺に入り込み、やがてゆっくりと吐き出される。明日もきっと世界は同じように続いていくだろう。その中で、僕がどんな意味を世界に与えるかは、まだ決めていない。
アサヒを取り戻すのは、僕の意志にかかっている。
王宮とアーディル
彼がテロを起こすつもりだと語った時、僕は冗談だとは思えなかった。その声の奥底にある、鋭く静かな決意の響きが僕の皮膚をじわじわと伝っていくようだった。バンコクの冬はいつだって暑い。僕たちはカオサン通り近くの古びた安宿にいた。天井のファンが回る音が部屋の空気をわずかに揺らしている。僕は彼の背中をマッサージしていた。彼の名前はアーディル。目の奥に何か取り返しのつかない影のようなものを宿していた。
僕は生きるために日銭を稼いでいる。王宮のそば、川沿いの道で立ちんぼをするのが日課だ。客を取るのは容易ではないが、それでもなんとかなる。こうして生きてきた。たいした学歴もなく、急速に発展を続けるこの都市の影で取り残された存在だと自覚している。社会の底辺というものに存在する独特のにおいを、僕はいつも身にまとっている。けれど、それがどうというわけでもない。僕は僕だ。
シーロムでマッサージ店に入ったこともあったが、長続きはしなかった。集団の中でうまくやることやルールを守ることには素養や耐性が必要だ。僕にはそれができなかった。何人かの友達はできたが、彼らもまたすぐやめて行った。そもそも似たもの同士だったんだと思う。だから、仲良くなれた。一匹ものの気質だ。
警察はいつも僕たちを目の敵にする。しかし、僕たちはいつも逃げるばかりでもない。仲の良い警官には暗闇でフェラをしたり少ない儲けからいくばくかのチップを渡す。逮捕されたり殴られるよりはマシだからだ。だからアーディルがテロリストだと言った時、僕は怖いと思うよりも先に、この彼もまた仲間なんだ、と思った。
------
アーディルと出会ったのは、今日はもう客を取れないだろうとあきらめかけていたそんな夜だった。彼が後ろから声をかけてきた。
「もう帰るのか?何か予定でもあるのか?」
彼の声は妙にフラットだった。断る理由もなかったし、正直、彼の顔立ちが少しだけ僕の好みだった。それに、どうせ暇だった。何が起こるかはわからないが、退屈よりはいいと思った。
バイクの後部座席に乗り、バンコクの夜を疾走した。湿度の高い空気が汗となって額を伝う。アーディルの背中にしがみつきながら、香料と香辛料の混ざった彼の体の匂いを感じる。その中にかすかなマリファナの香りが混ざっていた。
レンタルバイクを停めたアーディルは宿の2階に僕を連れていった。
部屋は脱ぎ捨てられた衣服や下着で散らかっていた。一角にだけ整然としたエリアがあり、そこには聖書のようなものが置かれていた。彼は「シャワーを浴びてくる」と言い、僕にスナック菓子を渡した。それを受け取った時、彼の手がほんの一瞬だけ僕の指に触れた。熱を帯びたその指先が記憶に残った。
シャワーを終えた彼は1,000バーツしか持っていないと告げた。そして、それでできる範囲のことだけをしてほしい、と微笑んだ。その微笑みは不思議なほど自然で、僕の中にわずかな安心感すらもたらした。
------
彼が僕に「テロリストなんだ」と言ったのは、僕が彼の肩甲骨のあたりを指で押しながら、筋肉の緊張をほぐしていた時だった。カオサンの安宿の小さな部屋には湿った空気と安っぽい匂いが漂っていた。僕はその言葉を聞いた瞬間、一瞬手を止めたが、何事もなかったようにまた動かし始めた。
「冗談?」と僕は聞いた。
「冗談じゃないよ」と彼は言った。彼の声は淡々としていて、その響きには奇妙な確信のようなものが宿っていた。それが演技でないことは、彼の瞳を見れば誰にでもわかるだろう。
僕は冗談めかして、「テロリストってマッサージを受けるものなの?」と聞いた。彼は少し笑ったが、その笑顔はどこか影を引きずっていた。
「体がほぐれたほうが、いい準備ができるからね」と彼は言った。その返答が冗談なのか本気なのか、僕には判別がつかなかった。
窓の外では、バンコクの夜が淡いオレンジ色の街灯の下で静かに流れていた。遠くからスクーターのエンジン音が微かに響き、誰かが何かを叫んでいる声がかすかに聞こえる。それらの音が、僕たちの間に流れる空気を引き締めていた。
「どうやってテロを起こすの?」
僕はマッサージを続けながら尋ねた。肩の筋肉がさらに固くなっているのを感じた。彼の思想が彼の筋肉にまで影響を及ぼしているようだった。
アーディルは返事をせず、仰向けになりながら僕を見上げた。その瞳には、あらゆる言葉を飲み込んだ静寂が宿っていた。そしてようやく彼は、「それは秘密だよ」とだけこたえた。その声には微かに笑みが混じっていたが、それが彼の本心を隠すためのものなのか、あるいはただの癖なのかはわからなかった。
彼の体をマッサージする僕の手も、ほんの少しだけ固くなっていた。彼の言葉が本当ならば、僕が今触れているこの体が、数日後に何か大きな破滅をもたらすかもしれない。その不安が胸の中に湧き上がってきたが、それでも僕は手を止めなかった。
彼に信仰があるように、僕もサックヤンを体にいれている。サックヤンは仏陀の加護や法力を体内にとりこむためにいれるものだ。ガオヨートと呼ばれる九つの尖塔のサックヤンが僕を守護している。サックヤンの加護が失われないためにはいくつかのルールを守らなければならない。だから僕は嘘だけはつかないことにしている。それが、アーディルの誘いを断らなかった理由だ。
------
アーディルと肌を重ねて激しいセックスをした。アーディルはためらいもなく僕の肛門の中で射精した。そして、約束通りクロントイの僕の家まで送ってくれた。僕は彼に1,000バーツのうち200バーツを返した。送ってくれたことへの感謝と、また会いたいという気持ちからだった。幸運よ連鎖しろ。僕はそう願った。彼は困惑したような表情を浮かべていたが、僕の気持ちを汲み取ったのか、しぶしぶ受け取った。
------
それから、僕はまた王宮に立ち続けた。殴られたり、思うように客をとれなかったり、犬畜生に吠えられたり、良いことも悪いこともない夜々を渡り歩いた。その間、彼は一度もあらわれなかった。
そうして年も暮れようかという残り少ない年末の火曜日に、エラワン祠で爆発があったことを知った。爆弾犯もろとも死傷し、複数名の被害者の身元もわからないと報じられていた。僕は咄嗟にアーディルのことが頭をよぎった。
バンコクの夜は今日も湿気を纏っている。僕は立ちんぼを続けながら、彼の匂いをふと感じ、そして、瞳の中の闇を思い出す。
僕が今までに見たどんなものよりも、強く、そして静かな闇。
闇と闇はどこかで境界線もなく繋がっている。繋がっていてほしいと願う。僕の闇は、またアーディルの闇と繋がることができるだろうか。僕は彼の無事をただ祈った。背中のサックヤンが導くままに。
サックヤン
桜と炭酸、レコードのようなもの
その春、僕は心と胃を同時に壊した。
まるで遠くの街で誰かが爆発音を聞いたと言っているのをラジオ越しに聞くように、じわりとした痛みが、ある朝、右の脇腹あたりににじみ出ていた。それは胃の問題だと医者は言ったし、恋人は「また変な本ばかり読んでるからよ」とため息をついた。
会社を辞めたのはその翌週だった。理由は単純で、もう電車に乗れなかったからだ。午前8時の中央線は、たとえば、時間の流れを少しだけ誤って配置されたビートルズの未発表曲のように、微妙に気持ち悪かった。
そんなわけで、僕はしばらく無職の時間を過ごすことになった。無職というのは、時間の中に意識を置き忘れるような感覚だ。あまりに暇なので、僕は毎日、近くの公園に咲く桜の下に座ってコーヒーを飲んだ。桜は盛りを過ぎ、風に吹かれては、まるでゆっくりとため息をつくように、花びらを散らしていた。
そのベンチの場所からは、斜め向かいにある古いアパートのベランダに掲げられたくすんだ指圧按摩の看板が見えていた。新しい住宅が建ち並ぶ中で、その建物だけは昭和からずっと変わっていないようだった。
自分も昔、マッサージをしていたことがあった。主に男性向けのマッサージで、顧客のほとんどはゲイの人だった。
そのことを人に話すとたいてい「大変じゃなかった?」とか「意外だね」と言われる。見た目がどうとか、性向がどうとか、人は簡単に箱を作っては中に詰め込もうとする。でも僕はただ、大学時代にバイトで始めたその仕事を、それなりに誠実に続けていただけだ。
春の午後、ベンチでコーヒーを飲んでいると、時折そのアパートの二階の窓が開いて、風に乗って古い歌謡曲が聞こえてくることがあった。小さなラジカセか何かで流しているらしく、音はかすかで、メロディーはどこか歪んでいた。それが妙に心地よかった。まるで、時間の端っこに引っかかった記憶がこすれるような感じだ。
ある日、そのベランダに女の人の影が見えた。年配の男性がやっていると思っていたから意外だった。年齢はうまく読めなかった。髪は短く切り揃えられていて、灰色のTシャツの肩が少し伸びていた。彼女は缶ビールを片手に植木鉢の花に水をやっていて、僕がベンチから見ていることに気づいていたのかどうか、あるいは気づいていないふりをしていたのか、判断することはできなかった。
翌週も、僕は同じベンチに座って、同じ缶コーヒーを飲んでいた。すると、彼女が2階から大きな声で
「ここの桜、好きなの?」と言った。
「まあ、嫌いではないです」と僕は声を張って言った。
彼女は僕の持っていたコーヒーを指さして、「それ、苦くない?」と聞いた。
「ちょうどいい苦さです」と僕は答えた。
彼女は笑わなかったし、僕も笑わなかった。まるで一枚の古いレコードのB面に、まだ知らない曲が隠されていたのを見つけたみたいだった。
その日の午後は、何もかもが曖昧で、正直な輪郭を持たなかった。でも、僕はそれでよかった。曖昧なものの中にしか、僕は居心地の良さを見つけることはできなかったからだ。
次の日もまた、その次の日も、僕は公園のベンチに座って、缶コーヒーを飲みながら桜の残骸のようなものを眺めた。花はほとんど散って、地面にうっすらとピンク色の層を作っていた。まるで誰かが一度開いた記憶を丁寧にたたんで、春の底にしまい込んだみたいに。
彼女は、毎日ではなかったけれど、週に何度かベランダに現れた。時には煙草をくわえていたし、時にはラジオのボリュームを少し上げて、ジュリーか誰かの声を風に流していた。僕がベンチにいるのを確認すると、軽く手を上げるようになった。微妙な手つきだった。挨拶とも、ただの身体の調整運動ともつかない。でも、僕はその曖昧さが嫌いではなかった。
十日ほど経ったある午後、彼女がアパートから降りてきて、僕の横に腰を下ろした。手にはレモンサワーの缶があって、開けたての炭酸がしゅわっと音を立てていた。彼女は僕のコーヒーを見て、僕は彼女のレモンサワーを見た。
「あなた、働いてないの?」と彼女が言った。
「はい。胃と心を壊しまして」
「順番は?」
「胃が先です。心はついでみたいなもんです」
「ふーん」と彼女は言って、それから何も言わずにレモンサワーを飲んだ。缶の表面に陽が反射して、彼女の横顔に不思議な光の屈折が生まれていた。たぶん、ああいうのを〈美しい〉と言うのかもしれないけれど、僕はそういう言葉を使うのがあまり得意ではない。
彼女の名前は笠原というらしかった。話しているうちにそう名乗った。年齢は訊かなかったし、訊かれることもなかった。僕たちは一時間ほど他愛もない話をして、沈黙を挟んで、それからまた話をして、自然に別れた。
彼女と別れて歩き出したとき、ふと、胃のあたりの重さが少しだけ軽くなっているのに気づいた。治ったわけではない。たぶん、ただ少し、重さの種類が変わっただけだ。たとえば、硬貨をひとつポケットに入れるような、そういう変化だった。
夜、アパートに帰ると、部屋の中はいつも通り静かで、冷蔵庫の中には炭酸水と賞味期限の切れたヨーグルトしかなかった。僕はそれをそのままにして、古いレコードを一枚、プレーヤーにかけた。音楽は、いつも何も教えてくれない。でも、それがかえって、僕には心地よかった。
続 桜と炭酸、レコードのようなもの
⸻
次の日の午後、空は少しだけ曇っていて、桜の花びらは地面に溶け込みながらも、どこかでまだ春の名残を諦めきれずにいた。僕は例のベンチに腰を下ろし、缶コーヒーのプルタブを引いた。カチリという音が、曖昧な午後に小さなひっかき傷をつけた。
笠原さんは現れなかった。アパートのベランダも静かで、ラジオの音も煙草の匂いもなかった。代わりに、どこからか猫が一匹やってきて、僕の足元に座り込んだ。グレーと白のまだら模様で、右耳の先がちょん切れたようになっていた。その不完全さは、どこか僕のようだった。
猫に名前をつけるほど器用ではなかったが、その風貌から「ボス」と呼びかけてみた。猫は僕の顔をちらりと見て、それからゆっくりと目を閉じた。拒絶でも信頼でもない。ただそこに在るというだけの、無言の合図のようなものがあった。
その日の夕方、部屋に戻ると、冷蔵庫の中は空っぽになっていた。僕はゴミを棄てるほうではないので、誰が片付けたんだろうと思った。細かいことではないような気がするが、とりあえず気にしないことにした。世界はいつも通り平常運転で動いていた。
ふとした気まぐれで、古いレコードをかけた。たしか大学時代に、中野の中古レコード屋で買ったやつだ。誰の演奏だったか思い出せなかったが、ピアノの音は時間を超えて、ゆっくりと空間の静寂(しじま)を撫でていた。
電話が鳴った。珍しいことだった。誰も僕に電話なんてかけてこない。番号は知らないものだった。でも、僕は出なかった。たぶん、出ないという選択肢の中にだけ、今の僕が主張できる権利のようなものがある気がした。
窓の外を眺めると、桜の木が風に揺れていた。花びらは散り、葉もまだ出ず、季節が次の段階に進もうとしているのが見て取れた。それはうつり変わるものにある、少しだけ残酷で、希望になりうるもののようでもあった。
僕は水道水をひねって一口飲んだ。少し生温かった。でも、それも悪くなかった。完璧な冷たさより、人肌のぬくもりのほうがちょうどいい時がある。数日たってもし、彼女がベランダに現れなかったら、マッサージを受けに行ってみよう。
それからしばらくして、いつもより少し早く目が覚めた朝があった。理由はわからない。ただ、窓の向こうにうっすらと陽の気配があって、鳥の声が、どこか遠くから、薄くけぶるように届いていた。時計を見ると、午前6時42分。僕にとっては異常な早起きの時間だった。あれから笠原さんを見ていない。
コーヒーを淹れて、窓辺の椅子に腰掛けた。外の風は穏やかで、桜の葉がではじめていた。風が吹くと、昨日の雨を祓うように少しだけ葉が踊るように動いた。その動きに、自分の呼吸が同調している気がした。
午前8時ごろ、僕はいつものように例のベンチへ向かった。空は曇っていたが、雨の気配はもうなかった。缶コーヒーが売り切れていたので買わないまま、ベンチに腰を下ろす。猫の「ボス」はすでにそこにいて、僕が腰を下ろすのを待っていたかのように、しっぽをくるんとまわして隣に丸くなった。
しばらくして、笠原さんがアパートの階段を降りてきた。今日は、グレーのTシャツではなく、白いシャツを着ていた。手には、いつものレモンサワーではなく、缶の紅茶だった。それが何かの兆しのように思えたが、僕は何も言わなかった。
「もう葉桜だね」と彼女が言った。
「そうですね。なんだか、桜じゃないものに見えます」
「桜じゃないもの?」
「花を失った桜の木って、桜じゃないみたいだな、と思って」
笠原さんはプルタブをおこして、それから何も言わずにひと口飲んだ。数秒の沈黙が風のように通り過ぎ、それから彼女は少しだけ、声のトーンを落とした。
「昔、海で恋人を亡くしたことがあるの」
僕は顔を上げたが、彼女は僕を見ていなかった。遠くのアスファルトの道路の窪みにできた水たまりをじっと見つめていた。彼女の目には、そこに見えていない何かが写っているようだった。
「その日も、こんな風の匂いだった。台風が近づいてて、空が低くて、彼はてんかん持ちだったの。合宿中に急に倒れて、そのまま海に落ちてしまったの」
彼女の声は淡々としていた。感情を乗せようとすると、うまく運転できなくなることを知っている人の話し方だった。
「一瞬のことだったの。落ちた後、コーチとかに助けてもらったんだけど、もう手遅れだったみたい。海って、あんなに簡単に人を殺しちゃうんだ、って」
僕は何も言わなかった。言葉が何の役にも立たないことがある、という事実を、僕はそれなりの回数、経験してきたからだ。
笠原さんは木から落ちてきた残滓を指で軽く払った。その仕草はとても静かで、何かを過去から未来へそっと送り返すようだった。
「でもね、今年の桜はわりと、いい桜だった。そう思える年って、案外少ないものなのよ」
「それは、悪くないですね」と僕は言った。
彼女は微笑まなかったし、僕も微笑まなかった。でも、その沈黙は少しだけ柔らかく、午後の光を通して、空気がきらめくようだった。
「それ以来、私は海がだめなの。海って、生きてるものをあんなに簡単に持っていくくせに、何も返してくれないでしょう?」
僕はうなずいた。海のそういう部分を、ぼくもきっとどこかで知っていた気がする。でも、そんなことを口に出す必要はなかった。
「あなたがそこに座ってるの、最初は変な人かと思ってたのよ。でもある日、コーヒーの缶を両手で包むみたいにして飲んでるのを見て、なんとなく、ああ、この人も何か抱えてるなって」
「みんな、何かしら抱えてますよ」と僕は言った。「たぶん、適切な缶コーヒーがないだけで」
笠原さんは初めて、小さく笑った。ほんの数秒だけだったけど、その笑いには、うっすらと風の匂いが混ざっていた。どこか遠い場所から来たような、懐かしさと哀しみのにじむ匂いだった。
風は季節とともに全てを変えてくれる。
「じゃあね」と彼女は言った。「もうすぐ仕事が入るの。指圧の方じゃなくて、区役所の手伝いだけど」
「それも悪くないですね」
彼女は缶を持ち上げて、ゆっくり歩いてアパートへ戻っていった。白いシャツの背中が階段をのぼっていくのが見えた。そして扉が閉まる音がして、再び彼女は鞄をもって扉を開き、そのまま区役所のほうに走って行った。静けさが戻ってきた。
そのあと、僕は少しだけ長くベンチに座っていた。桜の葉は風にそよぎ、あたりには誰の気配もなかった。あるはずの缶コーヒーも今日はなかった。その冷たさも、苦さも、どこか遠くへ消えたまま、不確実な感覚だけが、桜の木の下を支配していた。
青山の店